<とびきり熱いライフセーバー 1年前のひどい肉ばなれを克服し、インカレでぶっちぎりの優勝!>
矢野さんとの出会いは、私が大学3年の夏のこと
でした。
当時、私は大学の体育会・ライフセービングクラブの
副主将と言う立場でした。その頃、矢野さんは他の
運動部の治療を担当していました。
私は人伝に部の専属で針治療の面倒を見てくれる先生がいるということ、そしてその先生がライフセービングクラブにも興味を
もたれているということを聞きました。
それがきっかけで矢野さんに出会うことが出来ました。
針治療に対しては、高校生の頃、地元の治療院で
針治療を受けていたこともあり、もともと興味を
持っていました。また、その効果の大きさも
知っていたつもりでした。
しかし、矢野さんの治療を初めて受けたときは、これこそ針だ!と言う驚きがありました。
もちろん地元の治療院の治療も悪くはなかったのですが、矢野さんの針は
なんと言うか「攻めの治療」とでも言えるもので、悪いところを確実に潰して
いく、そんなイメージがありました。
針の先に爆弾でも仕掛けられているような・・・悪いところにさしてクリクリっとすると悪いところが爆発していくような感じがありました。カチカチに凍った氷がじゅわぁ〜と溶けて行くような感じでもあります。
矢野さんいわく、私は痛み刺激に敏感なようで、私の痛がり様に矢野さんも
ドンドン細い針を使うようになっていました。それでもその爆弾の感じに変わり
はなく、私の痛がり方も変わらなかったのですが・・・
矢野さんの針の腕は、私にとってはゴッドハンドだと思っています。ただ、
矢野さんの治療を語る上で、もっと注目すべきは矢野さんのその熱意だと
思います。
矢野さんの見た目からして熱気ムンムンの熱い男といった感じなのですが、私たち患者のケガを治したい気持ちを100%汲み取ってくださり、本気で治療にあたるその姿は本当のプロフェッショナルだと思います。
どんなに腕が良くても、気持ちの入っていない人の行動は響きません。
矢野さんの治療はそういった意味でもゴッドハンドだと思います(笑)。
矢野さんが熱い男であることは、矢野さんの数多い患者の中でも、たぶん私が一番よく知っているのではないかと思います。そのときのエピソードです。
私が矢野さんに出会った年の秋、私はインカレ(全日本学生ライフセービング選手権大会)のビーチスプリントリレーの選手になりました。
ライフセービングの競技はあまり知られていないと思いますが、この種目は4人のランナーがビーチの上を90mづつリレーで走る競技で、バトンの受け渡しが陸上競技と違い特殊な形式になっているものです。
大会前、矢野さんとのコンディショニングで体の仕上がりは良い状態でした。ただ、副主将という立場的なプレッシャーなどから、少々オーバートレーニング気味で矢野さんからも注意を受けていました。
それにも関わらず、私はトレーニングを重ね、とうとう腿裏の肉離れを大会一週間前にやってしまいました。
高校時代に肉離れを経験していたので、今回の肉離れがそれほど酷くない
ことはわかっていましたが、100%のダッシュが難しいのは間違いありませんでした。代表を辞退するか・・・。しかし、せっかくのチャンス。
正直、小学生の頃から運動しつづけているけど、こんな晴れ舞台は初。
矢野さんに泣きそうになりながら、何とか一週間でどうにかできないかお願いしました。
矢野さんは渋々、本当に渋々、自分の願いを聞き入れてくれました。それから大会までの数日、ほぼ毎日、私の家に矢野さんが訪ねて来てくださり、治療してくださいました。
そして、大会当日。矢野さんは大会の会場まで足を運んでくださり、競技のギリギリまで治療してくださりました。
そのときもやはり矢野さんの表情は渋かった・・・。100%は無理かもしれないという表情でした。
予選競技が始まる。
私は第一走者。
スタートの反応は良く、頭一個前に出る。
スタートから10m横に並ばれる。
自分はまだ80%のスピード、90%に上げて見る・・・。
30m・・・遅れを感じ100%。
・・・・・・次の瞬間、肉離れをした人なら知っているあの鈍い音が髪の毛の先から足の爪の先まで響いた。
でも、私は倒れなかった。残り60mを片足で走りきり、しかも仲間のお陰で予選一位突破!片足で走りきった私の集中力も自分自身驚いたが、それよりも矢野さんの反応に驚いた。
バトンを渡し、砂浜の上で倒れ、もがいていた私は、救護所へ運ばれた。ふと気づくと矢野さんがベッドの直ぐそばに。そして涙を流しながら、ずっと「松本君すまなかった・・・。止めるべきだった・・・。」と。
私も、あまりの痛さと、悔しさと、情けなさとで涙ボロボロだったが、矢野さんの涙はきっと自分以上だったと記憶しています。
矢野さんは最初からこうなる可能性が高かったことを知っていたのだと思う。しかし、私の性格や、私の立場のこと、それらを考え矢野さんは一アスリートの私が最も満足させるために、渋々治療にあたってくれていたのだと思います。
矢野さんのその涙の意味に気づいたとき、自分が矢野さんに対してなんて申し訳のないことをしてしまったのかと悔いました。
こんなにも責任を持って患者と向き合う熱い人は居ないとも思いました。
その晩、矢野さんは宿舎でも私に付き添ってくださり、翌朝から別の場所で仕事だというのに夜通し、私の寝返りの世話までしてくださった。
矢野さんとの熱い話はこれだけではありません。この大会の数日後から翌年の大会に向けて二人三脚で戦いました。
矢野さんの紹介のもと、お医者様やトレーナーの協力を得て治療し、リハビリ、激しいトレーニングと矢野さんのコンディショニング。
一年間で完全復活し、大学4年の秋、テレビ番組などでお馴染みのビーチフラッグスで学生チャンピオンになることが出来ました。
松葉杖からたった一年で日本一を取れたのは矢野さんの熱い協力なくしては実現できないものでした。
この一年間の熱い戦いは自分と矢野さんとの大切な思い出。ここは皆さんにはお伝えできません。
あとあと思い返せば、矢野さんが渋々治療をして下さったことは凄いことだと思います。
治療を担当してケガをしたら、責任を問われるはず。ケガをする可能性が高いことを知りつつも、本当にその人のことを理解し、考え、本当のその人の幸せを思い責任を持って判断し、治療してくださった。
情に流されたらプロフェッショナルじゃない・・・。
そんな声もあるかもしれないけれど、人が人を治療する舞台においては情、気持ちこそプロフェッショナルの必要条件だと思います。
時として、それが全てであるとも思います。やっぱり、矢野さんは本物です。
●治療の日々を振り返って;
これほど熱いヤツが、今どきの大学生の中にいたなんて・・・!
松本君の印象は、本当に鮮烈でした。
「巨人の星」はパロディとして使われてしまい、「シラケ世代」なんて言葉もすでに死語、体育会はおろか、スポーツ系サークルでさえ人数が減っているほど、いまどきの若い人は軟弱で、さめている・・・。
松本君は違いました。
私はスポーツ選手に接するとき、競技レベルの高い人よりも、モチベーションの高い人に惹かれます。
松本君は、まさに燃えるようなモチベーションの持ち主でした。
初めて出会った3年生の夏、かなり疲労がたまった上に、高校時代のラグビーでのひどい怪我をひきずっていました。でも、「インカレで表彰台に立ちたい!」という彼の夢を叶えてあげたい、私の治療で手助けができるならと治療に取り組みました。
しかし、インカレ直前での肉ばなれ、そして止めなければならないはずの私が止めずに・・・
リレー第1走者の彼が、まさかの肉ばなれ。
私も、悔しくてたまりませんでした。自分自身にも腹が立ちました。
それから、松本君との連絡はしばらく途絶えました。
もう、治療は頼まれないだろうなぁ・・・。信頼なんてあったもんじゃないし。
そう思っていたとき、ふと道端で彼と再会しました。
「かなり調子も戻ってきましたよ。また治療をお願いできますか?」
本当に嬉しかった。今度のインカレは絶対にリベンジだ!!!
それから、週2回の治療がインカレまで続きました。
そして、彼は見事なまでにコンディションを大会に合わせていきました。
昨年とは全然違う。そんな感触は私にもありました。
それが、まさかここまでになるなんて・・・!
私はインカレには同行できませんでした。今思えば本当に見たかった!
まさか、準決勝で、自分と反対側のフラッグを取りに
いくヤツがいるなんて!
それも、たしか2回も成功して。
そして、決勝も見事なまでの圧勝。
ビデオを見ながら、彼と二人で笑いが止まりません
でした。
あのビデオを見た後の、帰りの電車で一人飲んだ
酎ハイのうまかったこと・・・
いまでも忘れません!!
部の後輩や、松本君の治療後、筑波大の研究室に
戻れば午前様という日々も忘れるほど、
本当に良い夢を見させて頂けました。
松本君、これからもとびきり熱いファイヤーマンになること期待しています!!
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